「週刊新潮」2005年1月20日号に,「100人の命を救った10才の英雄少女」という記事が出ている.それによると,先日の大津波の際,海岸にいたあるイギリス人少女が,潮が引いてゆくのを見て津波が来るのを察知し,周りの人に知らせたので,その海岸にいた人は皆助かったそうだ.彼女は,たまたま冬休みの直前に,地理の授業で津波について学んでいたため,津波が来るのを知ることができたらしい.
これは大変すばらしいことだが,この記事は,イギリス文化史が専門のある名誉教授のコメントを引用して次のように締められている.
「イギリスでは、たとえば計算力などは日本より遅れているかもしれませんが、実社会に役に立つ知識は、日本はとても及びません。小さい子どもでも、大人並の見識がありますから、軽はずみな行動はほとんど起こさない」
いつも携帯で遊んでいるような日本の青少年とは、質が違うらしい。
では,イギリスでもっとも手厚い教育を受けていると思われる王子様が,ナチスの軍服を着て仮装パーティに出て物議をかもしたのは,軽はずみな行動ではないのだろうか.
いちいち「イギリスでは,...」「欧米では,...」と言って話を始める人を揶揄して,「出羽守(デワノカミ)」というそうだ.「昔はよかった」というのも同じ類である.
「出羽守ばなし」がやっかいなのは,聞き手にはそのイギリスやら欧米やらでの体験があるとは限らないから,おかしいと思っても簡単には否定できないことである.かくして,「イギリスは大人の国」「アメリカの大学生は皆よく勉強する」「フィンランドは親日国」といった言説がまかりとおることになる.
しかし,そもそも「情報」というのは「あなたの知らないどこそこでは,こんなことがありましたよ」ということを伝えるものだから,本質的にすべて「出羽守ばなし」である.だから,近年その重要性が言われている,「情報の受け手としての能力」である「メディア・リテラシー」とは,つまるところ「出羽守ばなし」の真偽を見抜く力ということになる.
確実な証拠のない話の真偽を見抜くには,結局,自分の力で話の「真実味」を推測するしかない.さまざまな方向から「真実味」を検討する能力と,人の話を安易にうのみにせずきちんと考える意志こそが「教養」であり,そのために人類が蓄積してきたさまざまな知識と思考法を学ぶのが「学問」である.やはり,すぐに役に立つものでなくても,勉強はしておくものだ.
もっとも,最初の記事の話がおかしいと理解するには,「イラク国民の100%がフセイン大統領に投票した」という話をおかしいと感じられれば十分なはずだが.
(05. 1. 17)
[追記]国際法学者・鈴木康彦氏の「出羽守の独り言」によると,「『出羽守』の言うことに対して,『そんなものは参考にならん』と憮然として見せる人」のことを「豊前守」というそうだ.