「命が落ちている」

今朝のテレビで,あるコメンテーターが新大久保駅の転落事故について,「3人の方の命が落ちているわけですから,...」と言っていた.

ふつうは,「3人の方が命を落とされたわけですから...」というところだろう.「命が落ちている」という表現は初めて聞いた.まるで「命」がころころと地面に転がっているようだ.

それにしても,結局誰も助からなかったのだ.まったくやりきれない事故である.考えてみれば,駅のホームというのは非常に危険な場所である.転落事故はよくあるし,だいぶ前,阪神電車の駅で,電車が通過するときの風圧で子供が飛ばされて死亡した,という事故もあったはずである.

新交通システムや新しい地下鉄の駅では,ホームにドアがついていて,転落事故を防止するようになっている.あれはどこの電車にも当然あってしかるべきものだ.命がホームからころころ落ちては困る.

既存の駅に工事をするのは大変だというかもしれないが,都営地下鉄三田線は,営団地下鉄南北線と合流して目黒まで延びたとき,南北線にあわせてワンマン運転をするために,全駅にホームゲート(天井まであるドアではないが,高さ1.3mの柵)を取り付けた.やればできるのだ.

(01. 2. 1)

[01. 2. 4追記] あの事故の後,新聞等では,勇敢な乗客がホームから転落した人を助けたというニュースが,よく掲載されている.「広がる善意と勇気の輪」といった感じで,肯定的に報じられている.勇敢な行為がすばらしいのはもちろんだが,乗客の勇気によって安全が保たれているシステムというのは,何かおかしくないだろうか.

[01. 2. 7追記] 雑誌「AERA」01. 2. 12号に,「電車救出死は無駄死にか」という記事が出ている.それによると,「三田線では過去30年間,自殺を含む転落事故で毎年平均3人ほどが亡くなっていたが,昨年夏に全駅で柵の設置が終わった後は一人の死者も出ていない.」そうである.「毎年平均3人」とは,恐ろしい話である.